南海トラフ巨大地震と災害伝承 

~徳島県 吉野川流域の災害伝承にも触れて~

衆議院 調査局 国土交通調査室長 國廣 勇人

3回シリーズの1回目

著者プロフィール

國廣 勇人(くにひろ はやと)

1988年に衆議院に入り、災害対策特別・東日本大震災復興特別調査室次席調査員、議事部請願課長、委員部副部長、決算行政監視調査室首席調査員、国土交通調査室首席調査員を経て、2024年1月衆議院常任委員会専門員・国土交通調査室長となる。著書に、「EBPMの現状と課題―国会はEBPMにどう向き合っていくべきか―」(2022年)、「災害伝承を取り入れた学校現場での防災教育」(2024年)(いずれもRESEARCH BUREAU 論究 衆議院調査局発行)がある。2025年より衆議院論究企画編集会議座長。防災士、気象予報士。

國廣 勇人氏
國廣 勇人氏

今回の視察に当たって、上月康則徳島大学環境防災研究センター教授、松重摩耶同助教、大橋育順徳島県埋蔵文化財センター研究主幹及び谷川亘国立研究開発法人海洋研究開発機構高知コア研究所主任研究員に大変お世話になった。

この場をお借りして厚く御礼申し上げる。

1.南海トラフ巨大地震と災害伝承

前回は、最近発生した大震災である東日本大震災の被災地に赴き、災害伝承の必要性を記述した。今回は、発生が間近に迫っている南海トラフ巨大地震について、災害伝承の観点から是非とも皆様に知っていただきたいことを記してみたい。

ご案内のとおり、本年1月には、30年以内の発生確率が「70%~80%」から「80%程度」に引き上げられ、緊迫性が高まっている。

また、3月31日には、平成25年に想定した南海トラフ巨大地震の被害想定が見直された。防災対策の推進状況や社会の変化に加え、震度や津波の浸水域に関わる地盤や地形のデータも高精度化され、被害想定が変わっている。前回の被害想定では最大32.3万人の死者数が想定されていたが、今回は最大約29.8万人と若干減少している。一方で、より現実に近い地形データが使用されたことで浸水する範囲が広がり、30cm以上の浸水面積は全体で11万5000ha強と約30%増加している。また、新たに、災害関連死者数の想定が算出され、最大約2.6万人~5.2万人と推計(上記死者数には含まれない)とされた。その他、全壊焼失棟数は最大約235万棟、経済被害は資産等の被害約224.9兆円とされた。

東京都も決して無縁ではない。被害が最大となるケースでは、全壊・焼失棟数については、液状化約 300棟、津波約1,300棟、火災約90棟と想定され、津波による死者は約1,400人と想定されている。

さらに、南海トラフ巨大地震を巡り、防災対策推進基本計画の改定作業も進められている。報道によると、政府は6月末から7月初旬に中央防災会議を開催し、基本計画を決定する構えとのことである(産経新聞2025年5月30日)。同報道では、基本計画には、概ね10年間で完遂すべき重点施策を地方自治体などが定めると明記し、初動や応急期での死者を減らす「命を守る」対策と、避難生活での災害関連死を防ぐ「命をつなぐ」対策の推進を掲げるとしている。在宅避難者に対しても十分なケアが必要との考えから「良好な生活環境の整備や保健・医療・福祉の供給体制確立」を挙げたとしている。

ここで、皆様にお尋ねしたい。南海トラフ巨大地震の典型的な対策事業として、皆様方が真っ先に思い浮かぶのはどこ県の何であろうか。おそらく、高知県の黒潮町の津波避難タワーではなかろうか。被害想定では、全国最大の津波の高さは、前回想定と変わらず、黒潮町と土佐清水市の約34mであった。2016年度に完成した黒潮町の国内最大級の津波避難タワーを中心とした自然・食・アートと連動させた黒潮町の防災ツアーは、全国からの訪問者が相次いでいるという。

しかし、本稿で筆者がお伝えしたいのは、高知県の隣県である徳島県の取組である。徳島県でも大きな津波被害が想定されており、実際、過去にも繰り返し被害を受けてきた。その教訓を後世に残そうと先人たちが懸命な努力をしてきた。今の世代にどのように危機感を持って伝えようとしてきたのか、目立たないが、これらの研究が着々と進められていることを是非とも紹介したい。

まず、2つの書籍がある。一つは「震潮記」の現代語訳である。震潮記とは、徳島県の宍喰の元組頭庄屋田井久左衛門宜辰(1802~1873)が、安政南海地震・津波の当地の状況を記したものである。併せて、宍喰におけるそれ以前の津波について、具体的には永正(1512)、慶長(1605)及び宝永(1707)の様相を記した旧寺等に残る記録も記述している。これにより、宍喰における過去500年強の地震と津波の全容が理解できるのである。

本記録は、子孫である故田井晴代さんが、非常にわかりやすい現代語に訳され、2006年に出版された。震潮記の発見後、8年かかりで作成されたとのことである。こうした後世に残そうとする強い信念には心から敬意を表したい。震潮記では、地震直後の人的・物的被害の状況はもちろんのこと、その後の余震、液状化、災害応急対応、税の減免や無利子貸付、復旧の過程など克明に記録されており、学術的にも価値が高いものと考える。その中でも、繰り返し述べられているのは、とにかく命を守るため、荷物などを持たずに真っ先に逃げよ、としていることである。貴重品を携行して命を失った例、物を取りに戻って津波に巻き込まれた例は近年でも見受けられている。

本記録は、歴史史料という点においては、まだ十分な研究がなされていないかもしれないが、災害伝承、教訓という意味では、大きな価値があると理解している。

もう一冊は「四国防災八十八話」である。四国は多くの災害を経験してきており、各地に災害に関する言い伝えや災害から生き延びた体験談が数多く残されている。「四国防災八十八話」は、四国の防災分野の研究者12名で構成される「四国防災八十八話検討委員会」が、四国各地に残る水害、土砂災害、地震・津波、高潮、渇水に関する物語や言い伝えなどから、膨大な資料から史実に基づくこと、今日的な教訓が含まれること、読者を惹きつけること、災害の種類や発生した時代などを考慮し、八十八話を選定したものである。

本書は、2008年に国土交通省四国地方整備局から発行された。見開きで一話完結であり、小学生でもわかりやすい文章と魅力的な挿絵、被災の背景と現地へのアクセスも記載されており、案の定、筆者も惹きつけられた。このうち、徳島は29話が掲載されており、地震・津波に関する話は11話掲載されている。

なお、四国防災八十八話はマップ化され、4県の小中学校等に配布されるとともに、現地探訪やオンラインツアーの実施、効果検証(PDCAサイクル)により学習方法や普及啓発ツールの開発・支援を継続している。これが評価され、第1回NIPPON防災資産(内閣府と国土交通省が、地域で発生した災害の状況を分かりやすく伝える施設や災害の教訓を伝承する活動などを認定する制度。2024年5月に創設。「優良認定」と「認定」がある。)の優良認定に認定されている。

さて、筆者は、四国防災八十八話に描かれている場所を中心に、2025年5月に、以下の自然災害伝承碑等(後に述べる高地蔵は国土地理院の自然災害伝承碑には登録されていないため「等」とした)を視察した。

ここで紹介する自然災害伝承碑等も一部である。先人は、自然災害伝承碑等を通じて非常に多くの教訓を残してくれたことがわかる。なお、伝承碑等の説明は気象庁、徳島県庁、徳島県立埋蔵文化財総合センター及び徳島大学環境防災研究センターの記載を参考に記述した。

〇蛭子神社の百度石(徳島市)

安政南海地震についての石碑である。碑文の内容は以下のとおりである。「嘉永7(1854)年11月5日大地震があり、人々は木竹の中へ駆け込んだ。津波がくると聞いて、船に乗ったものは危うく助かった者もいれば、転覆して命を失う者もいた。船には乗るべからず。家が潰れて炬燵、竈より火がおこり、多くの家が焼けた。このような時は心を静めて火の元に気をつけることが肝要である。百年が経るうちに同様の地震と津波が有ると聞くので、氏神の廣前に百度石をたてるついでにそのことを記す。文久元(1861)年9月吉日。」

なお、2021年12月に、同じサイズの百度石が参道の反対側に再建された。劣化で石の表面が剝がれ、碑文に記された多くの文字が読めなくなっていたため別の石柱に刻印したとのことである。もちろん、古いものも残されており、劣化がこれ以上進まないよう、保護するための囲いが施されている。

〇中喜来春日神社敬渝碑(松茂町)

安政南海地震についての石碑である。「敬渝」とは「変をおろそかにしない」という意味である。地元の藍商人三木與吉郎によって地震から2年後の安政3(1856)年に建てられた。碑には春日神社に隣接する呑海寺住職である夢厳観によって詠まれた七言の漢詩が刻まれている。碑文の前半には大地震により家屋が倒壊し火事が起きたこと、液状化現象や津波によって桑畑が海のようになったことなど地震当時の災害の様子が記述されている。中段には人々が不安のなかで流言飛語が飛び交う様子や津波を避けようと山へ向かって列をつくる様子、粥やにぎり飯を施す人がいたことなど、被災直後の人々の様子が描写されている。後段には東海地方や浪速など全国の被害状況なども記されている。

〇牟岐大震潮記念碑(牟岐町)

安政南海地震と昭和南海地震の碑が並んで建っている。2つの碑の間には、昭和南海地震の最高潮位4.52mを示す新しい標識があり、住民に津波への注意を促している。安政南海地震の碑は、度重なる地震の記録を留めようと、昭和6年(1931)に建てられている。「安政東海地震(1854年12月23日)が午前8時に発生、午前10時に潮の変動が見られたため人々は恐れて山へ避難し一夜を過ごした。翌5日(1854年12月25日)の午後4時に安政南海地震が発生、約10mの津波が3度押し寄せ、家屋640戸が流失、39名が溺死した。天変地異の前兆があれば、油断せずに避難することが大切である。」などと刻まれている。また、幻の津波といわれる永正9年(1512)の津波来襲日や、慶長・宝永・安政各地震の震暦も刻まれている。

〇浅川南海大地震記念碑(海陽町)

昭和南海地震についての石碑である。碑文の内容は以下のとおりである。「昭和21(1946)年12月21日午前4時19分の満潮時、東経135度6分、北緯33度、潮岬南々西約50キロメートルの海底を震源とする大地震あり。大地鳴動数分に及べり。震後10分余りにして津波襲来。第一波の極点4時40分、波高約2.7m。第2波5時、約3.6m。第3波5時20分、約3.3mを記録する。死者85人、傷者80人、住家流失185戸、全壊161戸、半壊169戸。特に東町、新屋敷、太田方面は殆ど流失全滅の状態となる。其他、船舶、漁具、家財及農作物の流失被害は計り知れず。当時、復旧を思う者なし。時、終戦後の物資不足の折、多面に援助を受く。ここに銘を記し記念とす。昭和31(1956)年12月」

〇浅川天神社石碑(海陽町)

安政地震についての石碑である。碑文の内容は以下のとおりである。「安政元(1854)年11月4日午前8時地震暫く揺り、午前10時頃汐狂う。人々山上に荷物を運び、その夜を明かす。翌5日晴天雲風無く、日輪朧の如く、暖なること3月の如しで、山上に荷物を運ぶ者もあれば、事が済んで気が緩み荷物を持って降りる人もいて、まちまちである。午後4時に大地震があり、高さ9mの大汐が矢のような早さで来た。浦上カラウト坂麓まで。いせだ戸や山の神関まで上る。天満宮、大歳御﨑神社、浦三ヶ寺残る。西ノ奥東谷人家ことごとく流失したが、用心していたため、けが人なし。

永正、慶長両度あり。宝永4(1707)年10月4日稲観音堂石像地蔵尊に記あり。宝永度まで百年前後なれど、この度は148年目なり。後年に寒暖時候に背き、大地震が揺ったときは油断するべからず。後世のためにこれを建てるものなり。」

〇浅川観音庵昭和南海地震津波襲来地点石標、安政南海地震津波襲来地点石標(海陽町)

昭和のものは、昭和南海地震時の津波到達地点を表したもので、「浅川村震災誌」(浅川村震災誌委員会1957)によると、「観音堂の石段は十三段目」と記述されていることからこの位置に設置されたと考えられている。正面には「南海地震津浪襲来地点」、左側面には建立者名が刻まれている。

 安政のものは、安政南海地震時の津波到達地点を表したもので、千光寺扁額や浅川御﨑神社石碑に「観音堂石段廿五段迠」とあることから、この位置に設置されたと考えられている。正面には「安政津浪襲来地點」、左側面には「昭和十三年六月」と刻まれている。昭和13(1938)年6月に建立された。昭和8(1933)年に三陸大地震が起こっており、当時津波に対する危機意識があったと推定されている。

〇浅川観音庵地蔵尊台石(海陽町)

宝永地震についての石碑である。碑文の内容は以下のとおりである。正面には、「宝永4(1707)年10月4日晴天で暖かい日、午後2時頃大地震暫く有り。揺れの後、約9mの大汐が浦上村カラウト坂の麓まで上る。汐が引いた後、千光寺の堂のみ残る。老若男女140人余りが溺死した。亡者菩提のためこの石像の地蔵一体を供養致し安置し奉るものである。」と記載され、左側面には、正徳(1712)年2年7月。寄進施主、願主の名前が記されている。観音庵の由来について書かれた扁額が庵の中に置かれている。1242年に浅川竹の内里に建立され、1647年に現所在地に移ったとある。これは昭和57(1982)年に書かれたものである。

〇浅川御﨑神社石碑(海陽町)

安政南海地震についての石碑である。碑文の内容は、隣接する千光寺の扁額に記された内容を写したものである。

「嘉永7(1854)年11月4日午前8時頃地震しばらく揺り、午前10時頃汐狂い町中へあふれ込む。人々驚き山上へ荷物を運ぶ者あり。雲風なく日輪朧の如くなれば、宝永の如き震汐を警戒し、篝火を焚いて夜を明かした。5日はさらに暖かく、時候に背いているので、山上に仮小屋を建てて荷物を運ぶ者もあれば、事が済んで気が緩み荷物を持って降りる人もいてまちまち。午後4時頃に大地震があり、山の様な津波が来た。1番汐より3番まで大荒れ。浦村人家土蔵残らず流出したが、天満宮、大歳、御﨑神社、江音寺、千光寺、東泉寺は残る。明け方午前4時頃には、揺れも波も静まった。津波の高さは6~9m。観音堂石段25段まで。一谷坂下まで。伊勢田馬頭観音まで。すべり石坂下まで。三ヶ寺とも座上4尺あまり。浦で2人と馬2匹死ぬ。大阪その他で、船乗りに多数の死者が出た。百有余年の後、このような地震津波があるときは、必ず前兆がある。山上へ仮小屋を建て、当用の品を運んで仮住居の用意が肝要である。決して船に乗って逃げようと思うな。後の人の心得のために書き記すものである。大汐の年号永正9(1512)年8月4日から慶長9(1604)年12月16日まで94年。宝永4(1707)年10月4日まで104年目。嘉永7(1854)年まで148年目。この後の行には、宝永の大汐は井戸水が引き海岸より200間も潮が引いた。死人158人。山道は年々作るべし。」

見てのとおり、近隣の道路工事が優先され、保存状態が極めてよくない。非常に心配されるところである。

〇震災後50年南海道 地震津波史碑(海陽町)

昭和南海地震についての石碑である。碑文には、以下の文言が刻まれている。「”お母ちゃん、行けんもん”助けを求めるあの声を思い出したら、今でも辛うて… 昭和21(1946)年12月21日午前4時19分 マグニチュード8.1の大地震が紀伊半島沖で発生、この地震による津波が浅川を襲い死者85名、 負傷者80名、家屋の流出185戸、全半壊330戸、さらに道路、船舶などにも壊滅的な被害を受けました。 典型的なⅤ字形の浅川湾は、津波の波高が増大しやすく、過去幾度となく被害を蒙ってきました。

  「人の命は地球よりも重い」南海道震災の痛恨の体験から、先輩たちの海への愛、自然との戦いの辛苦を胸に刻み、 防災を磐石なものとするため、町民の方々と共に努力し、魅力ある港づくりを目指していきます。

南海道震災から50年、当時を回想して犠牲者のご冥福を祈念し、この災害の歴史と先人の教訓が永く語り継がれることを念願するものです。平成8(1996)年12月21日 海南町長 五軒家憲次」

〇津波十訓(海陽町)

「震災後50年南海道地震津波史碑」の横に、津波に対する心構え「津波十訓」が刻まれている。それには「地区内に建てられた多くの昭和南海地震津波の最高潮位標識よりも高い津波もある、最小限の持ち出し品の準備、避難路・避難場所を決めておく、津波の前に潮が引くとは限らない、避難は早く近くの高いところへ、船の移動方法」などに関する教訓が述べられている。昭和南海地震(1946年12月21日)の教訓として、平成8年(1996)12月21日に建立。

〇大岩慶長・宝永地震津波碑(海陽町)

慶長及び宝永南海地震についての石碑である。

舟形内の上半部に「南無阿弥陀佛」と彫られている。これが「慶長碑」である。向かって右側には、慶長碑より小振りな舟形の彫り込みに「宝永碑」が刻まれている。慶長地震について記した貴重な碑である。左側の慶長碑には、津波で百人余りの人が亡くなった事が記されており、宝永碑には、一人の死者も出なかったことが記されている。

慶長碑と覆い屋の間に穿たれた長軸41cm、短軸32 cmの楕円形の穴である。これと同様の穴が、背面上部にも穿たれている。ともに現地表面から1~2m上方に位置する。船を係留するための舫(もやい)綱を結んでいた穴と推測されている。これらの形状的な特徴から、もともと大岩は海岸に隣接した位置にあり、船を係留するために使われていたと考えられている。埋め立てや土地の隆起等の影響で海から離れ、慶長南海地震の津波の後に街道に面した中央部に慶長碑が彫られたと考えられている。その後、宝永の南海地震が起こり、新たに碑文が彫られた。

本石碑に関し、徳島県立埋蔵文化財総合センターは、「慶長地震による津波の被害については、『震汐圓頓寺旧記之写』により宍喰で1,500人が溺死したが、鞆浦では百余人。宝永地震津波については宍喰で11人が溺死したが、鞆浦では溺死者なし。このことから資料が事実とすれば、慶長地震津波の被害が宝永地震津波に比べて圧倒的に大きいこと、宍喰の被害が鞆浦に比べて大きいことがわかる。前者については慶長地震津波が旧暦12月の午後10時頃で暗く、地震が小さかったので津波に気づくのが遅れたためと考えられる。これに対して宝永地震津波は午後2時頃であり、避難しやすい状況であったと想像できる。鞆浦は昭和南海地震津波においても、ほとんど被害が見られなかったため、宍喰に比べて大きな津波が発生しない環境であると推定される。」と記述している。

〇鞆浦海嘯記碑(海陽町)

安政南海地震についての石碑である。正面の碑文の前段は、安政南海地震の経過と被害の状況を記録したものである。その内容は、「嘉永7(1854)年11月4日の午前10時頃の地震に続いて、翌5日の午後4時頃に大いに揺れだし、津波が来るというので、住民は慌てふためいて山々に避難した。津波は夜半までに4~5回あり、余震は夜明けまでに30~40回も続いた。津波の高さは他の地域に比べて低く3~6mほどである。建物の被害も少なく、けが人もでなかった。」というものである。

後段には、教訓と碑を建てるにあたっての経緯が刻まれている。その内容は、「いにしえより百年前後に必ずあるなれば、後年にもきっとあるであろう。銃手の岡澤行正がこのことを憂い、浦長の高橋甫輔と相談し、そのあらましを石に彫字して普く後世の人に告げようとした。地震があれば、迅速に逃避して命を全うさせようとするよき心構なれば「惻隠の至誠」というべきである。自分にそのことを記して欲しいとしきりに頼むので、その善挙を助けようと思い、安政2年秋に高木宗矩がこれをしるす。」というものである。

〇東由岐康暦碑(美波町)

正平南海地震の石碑ではないかと推測されているが、明確な根拠はない。板碑と同様に上部には三種の梵字(釈迦三尊)が彫られているが、先端部が欠損しているため、中央の梵字は確認出来ない。現在、下部は欠損し文字は確認できないが、「四季供養」「造立塔婆」「書写□経」「康暦二庚申霜月廿六日」の文字があったといわれている。康暦は北朝年号である。康暦碑」は、日本最古の地震津波碑として知られているが、碑文には地震や津波に関する記述はない。最初にこの碑に言及したのは、「阿波志」である。文化12(1815)年、阿波藩の儒者佐野之憲が各地の伝承をまとめたもので、笠井藍水により、昭和6(1931)年に「阿波誌」として活字で出版された。巻12海部郡の「塚墓」の項に、「康暦碑由岐東浦に在り康暦二年庚申十一月十六日海飜て震トウす死亡甚だ多し此に合葬す」とある。また、同巻の「山川」の項には、「雪池東西由岐村の間に在り康安元年地大に震ひ海湧き闔村蕩盡す(中略)地裂け池と為る長さ二百二十歩徑百歩太平記に見ゆ」とある。

〇貞治の碑(美波町)

碑文として確認できるのは、「貞治六年丁未六月廿四日」のみである。貞治6年は北朝年号で1367年である。庵の中に安置されてきたためか、文字は明確に確認できる。世話人の話によると、「安政地震の際、西由岐の堤防に築き込んであつたが光って仕様がないので信仰者が現地の少し上方へ持つて来て祀つた。」とのことである。現地にはもともと地蔵庵があって旧正月24日には市が立ち、相撲もあって大変賑やかであったが、大正時代に新道工事の際に現在の位置に移動してきたとのことである。

なお、平成30年6月27日に当時の皇太子殿下がご視察されている。

以上が、筆者が視察した南海トラフ巨大地震に関係する伝承碑である。

自然災害伝承碑等は、長期にわたり雨風にさらされることで生じる汚れや風化に伴った判読性・視認性の低下により人々の関心が薄れるとともに、保存・修復に関する問題も生じている。

そこで、海洋研究開発機構超先端研究開発部門の谷川亘研究員を中心としたチームは、ひかり拓本やデジタル技術化を活用して、災害碑に対する理解を深める学習プログラムを実施している。ひかり拓本とはでこぼこした表面に斜めに光を当てたときに生ずる影だけを撮影して、色々な光の角度の影を重ねて合成する技術である。2023年にはスマートフォンアプリとなり、誰でも使用できるようになっている。谷川研究員らは、防災教育の観点から、こうした技術を駆使し、3Dデジタルモデルの製作を通じた記録・保存(デジタルアーカイブ)及び碑文の判読性向上の体感を通じて、自然災害伝承碑等に対する興味関心を向上させる活動を実施している。その結果、生徒による議論をもとに考案された自然災害伝承碑等には、将来石碑を建立する時のアイデアが多く散見されたという。

筆者もミニチュアを見せていただいた。実際に、前日、本物を見ていただけに、文字の擦れ具合なども本物と同じであり、その精緻さに驚嘆した。

さらに、筆者が共感したのは、自然災害碑に3Dデジタル技術という付加価値を加えることにより、伝承碑が身近に存在しない地域に対しても、こうしたデジタル仮想空間(VR)を活用して紹介することを目指していることである。本物(に限りなく近い物)に接することがなによりも災害の実態を体感できることに繋がるからである。

同研究員らは、「今後、従来から実施されている避難訓練とデジタル技術を介した自然災害伝承碑を活用した総合学習を通して、若い世代が歴史自然災害を伝承することの重要性への理解が進むことを望む。」としている。筆者も更なる展開を期待している。

次回は、吉野川流域の自然災害伝承碑等を予定しております
お楽しみに