「かたりびと」加納和子さん

阪神淡路大震災にて被災した加納和子さんにインタビューを行いました。

加納さん
加納さん

私は兵庫県神戸市で生まれ育ち、阪神淡路大震災が起こった1995年1月17日、その時私は神戸市内の御影高校の1年生でした。その当時の出来事は今でも鮮明に覚えています。あの震災でどれだけ多くの命が失われ、どれだけの人々が助け合い、また、どれだけの命が奇跡的に救われたのか。そのすべてが私にとって非常に大きな意味を持つ経験となりました。

目次

インタビューの様子はYouTubeにてご覧いただけます。

震災が訪れたその瞬間

1月17日の早朝、突然の大きな揺れが私たちの家を襲いました。最初は縦に揺れるドンという衝撃音が鳴り響き、続いて横揺れがひどくなりました。私は目を覚ますと、すぐに布団をかぶり、震えながらじっとしていました。家の構造は頑丈で、幸いにも大きな破損や怪我はありませんでした。けれども、家の外は瓦礫が散乱し、柱が倒れ、家の周りが崩れ落ちる音が響いていました。

家族全員が家の中にいたものの、玄関ドアが傾き出られなくなる事態に。ドアを蹴破り外に出ました。外の景色は一変し、遠くに火災が見え、街全体が混乱状態に陥っているのが分かりました。祖父母の家が近くにあり、その安全を確認するため、私は急いで歩いて向かいました。そこでも家は倒れ、悲鳴や叫び声があちこちで響いていました。

奇跡的な生存


その中で、最も忘れられないのは、祖父が生きていたことです。祖父は当時ベッドで寝ていたのですが、大きな揺れでベッドの下に転がり落ち、奇跡的にベッドの下にできた隙間に収まり、助かっていました。何度も声をかけ、声が返ってきた瞬間、喜びの気持ちでいっぱいになりました。

助け合いの精神


その後、近所の人々が一致団結して助け合う姿を目の当たりにしました。普段、そんなに交流がないような隣人たちでも、震災後はお互いを気遣い、声をかけ合い、協力し合っていたのです。特に、元気な成人男性たちは必死で動き回り、家々の中に閉じ込められた人々を助け出し、瓦礫を取り除きました。普段は見られないような強い絆と助け合いの精神が、あの時は確かに存在していました。

避難所生活


私は家が壊れてしまったため、すぐ近くの小学校に避難しました。避難所となった学校はすぐに開放され、教室にブルーシートが敷かれその上で過ごしました。もちろん食料や水の供給は不足していましたが、それでも周囲の人々と力を合わせて、生活を支え合いました。避難所に避難しているときに、人々が助け合う本当の意味を実感しました。

震災から得た教訓

震災を通して、私は命の大切さ、そして人々の助け合いの重要性を深く学びました。また、いかに災害に対する準備が大切であるかを痛感しました。

あの震災がもたらした痛みや苦しみは、私にとって忘れることのできない経験となり、今でも心に深く刻まれています。それと同時に、あの日近所の人たちの助け合いや、命の奇跡を思い出し、日々感謝の気持ちを持ちながら生きていきたいと強く思っています。

最後に


阪神淡路大震災から学んだことを無駄にしないために、私たちは自分の力だけでなく、周囲の人々と協力し合う力を持って生きることが大切だと感じます。そして、どんな時でも冷静さを保ち、準備を怠らないことが命を守るために重要だということを再認識しなければならないと思います。